趣味ともいえる 彼を想うこと

阿久津 仁愛くんを追いかけるという趣味です

ウイルス一つで会えなくなってしまうよ、他人だからね。

タイトルの通りです。
コロナウイルスが現場を根こそぎ奪ってますが、私も例に漏れず、今日チケットを持っていたすべての現場が消滅しました。「プラネタリウムのふたご」延期だそうです……。2021年に延期とのことで非常~~~~~~~に悔しい。。。ドリライプラネタリウムのふたごもなくなってしまって(ドリライは中止のお達しだし;;)2020年に楽しみがなくなってしまいました……。

 

一体、次に仁愛くんに会えるのはいつになるんでしょうか。
次に会うのが2021年とかになったら洒落にならん。マジで。

 


推しに会えない。次にいつ会えるかもわからない。
ステイホームでかえって家族との時間ができてよかったという声を聞いて、改めて、ファンと演者ってのはとても近しいようでいて、でも結局は「他人」なのだなあと痛感しました。その存在に、勝手に身内のような親しみや安心感を抱いてしまっているけれど、こんなウイルス一つで会えなくなってしまうんですよね。舞台が、イベントがなければ会えないわけです。他人なので。ZoomもSkypeもLINEもできない。他人だからね。そりゃそうだけど、そりゃそうなんだけど…………せつないもんです。他人だと思えないくらい想ってしまうと、こういうときに「他人なんだうちら」とびっくりしてしまいます。ちょっと何を言っているかわからないかもしれませんが、推していると他人であることを忘れてしまうんですよね。いや「ファンと演者」という関係だから、他人ではないのかな?でも私が他界したらもう二度と会わないわけで……そしたら他人になる?それとも一生「元ファンと元推し」???(うーんうーん)

 

口をきいたのだって、トータル数分程度だと思います。お見送りやハイタの際に、なんて声をかけようか考えるタイプのオタクですが、とは言っても、結局は「ありがとうございました」的なテンプレ挨拶しかできないですし。最初は笑って通り過ぎていたけど、なんかもったいない気がして(いつ「直接伝えられない人」になっちゃうかわかんないしね)いまは一言投げかけるようにしていますが。。。。

でもね。何を言ってみたって、ほんとにたいした会話なんてしていないわけです。

「楽しかったよ」「おれも楽しかった」「次回もやってね」「もちろんだよ」「ごはんおいしかった?」「おいしかったよ!」「ありがとう」「こちらこそありがとう」「おつかれさま」「またね」

私にとって忘れられない思い出でも、推しにとってはそうじゃないかもしれない。私にとって1/1でも、推しにとっては1/1000くらいかもしれない。いや、もっとかもしれない。もっとだろうな。友達について言及した本○奏多さんみたいなことを言ってしまいますね。(→僕にとって神木は1/1でも、神木にとっての僕は1/100)そういう温度差がこれからもっともっと強くなるかもしれないな。切ないね。でもそれを悲しく思うのは哀れなんだろうな。もともと他人なんだから。う゛っっっっっっっっ(泣)

ファンってなんなんでしょうね。他人のようで他人じゃないのかな。他人じゃないようで他人な気もするし。むずかしいですね。推しが板から降りちゃったら、その瞬間赤の他人になるんでしょうか。一方的に「忘れられない人」にしても、向こうがただの個人に戻ってしまったら、もうその瞬間に’’他人’’なんでしょうか。

 

こんなセンチメンタルなことを考えてしまうのも全部COVID-19のせいなんですけど。マジでいい加減にしてくれ!

 

 

でもやっぱり直接「ありがとう」と伝えられて、向こうからも「ありがとう」って言われたりなんかすると一蓮托生、これからも一緒に頑張っていこうな!!!という気持ちになってしまいます。そういうとき、新宿ですれ違うだけの他人よりは、ちょっとだけ近い他人になれた気がしますね。

やっぱり現場って大事だなあ。。。接触下手だし、気の利いた一言とかいつも言えないんですけど。1/1000だから気にしすぎだけどね。